妙義は古来から山岳信仰の対象として広く知られる存在であったと言われています。

江戸時代に入り、上野東叡山宮御兼帯の格式を得ると、歴代将軍や皇室などから崇敬、庇護されました。

妙義千軒と称されるほど隆盛を極めていたと言われるこの地に、

ひしや旅館は文化元年(1804年)の創業以来、二百年以上に渡り歴史を重ねてまいりました。

その永き歩みを辿ると、富岡鉄斎、徳富蘇峰、夏目漱石、正岡子規、ウォルターウエストンなど

数多くの文人墨客が当館での時間を過ごしています。

こちらでは当館に残るその貴重な書や画、写真をご紹介いたします。

富岡鉄斎

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京都に生まれる。15歳から国学、漢学を学び、18歳頃から南画を窪田雪鷹、小田海仙に学ぶ。近代日本画の中独自の位置を占めた。鉄斎は明治36年、善光寺へ参詣し、続いて妙義山に登って多くのスケッチを残した。天保7年(1837年)~大正13年(1924年)京都にて没す。

田能村直入

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文化11年(1814)に、現在の大分県直入郡竹田寺町に生まれた。後年の直入の号は、師の田能村竹田と同じく 出身地によるものである。直入9歳のとき竹田に師事し竹田荘に入塾、画家として次第に成長していった。

徳富蘇峰

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文久3年(1863年)上益城郡津森村の母久子の実家で生まれ水俣の濱村で育つ。同志社英学校を卒業間際に自主退学、熊本で大江義塾を開く。水俣に全国初の婦人会を結成させた立役者。著書は『近世日本国民史』100巻を含め360余冊。92歳まで著作活動を続けた。書道家や詩人としても活躍。

中村不折

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洋画家・書家。本名はさく太郎。江戸生まれ。はじめ南画を学び、のち小山正太郎らに洋画を学ぶ。渡仏してローランスに師事。帰国後、太平洋画会で活躍。歴史画を得意とした。また、六朝を研究、書道博物館を創設。(1866年~1943年)

柴田是真

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幕末から明治にかけて活躍した漆職人。蒔絵・漆絵・絵画とマルチな才能を発揮した柴田是真は、”最後の江戸職人”とも呼ばれています。(1807年~1891年)

作者不明

妙義の地図

昔の資料

昔のひしや旅館

昔の妙義神社

昔の妙義山

昭和初期の妙義